母との運命

1 丸い月が輝いていた

母が亡くなった夜、雲のない空には丸い月が輝いていた。

その月は何度も見ていた。
毎日仕事が終わって母のいる病院の行き帰りに渡る、橋の上から。
病室で寝ている母に会って夜遅く車に乗り込む時の、病院の駐車場から。
不思議なことにいつもその度に、空には丸い月が輝いていた記憶しかない。

母が亡くなったのは、肝不全だった。
肝臓癌の手術をしてから10か月もの間、入退院を繰り返した後だった。

私を産んだ時の輸血がその原因だった。
母は私を産んだ時、かなり出血をした。
それで輸血が必要になった。
その輸血した血液の中にC型肝炎のウイルスが入っていた。

C型肝炎はいまだ決定的な治療法が見つかっていない。
何十年もかかって肝臓を蝕み、そして高い確率で肝硬変を経て肝臓癌へと進行していく。
肝臓癌は現在も悪性腫瘍による死亡数の第4位にあり、年間3万人を超える人が亡くなっている。

母には本当に数えきれないくらい愛情を受けたと思う。
命がけで私を産んでくれたこともそうだし、母の人生はいつも子供が中心だった。

母は松代藩の代々の武士の流れを汲む家で、厳格な父親とひたすら忍耐を身上とする母親のもとで産まれた。
すでに2人の子供がいて妻と死別した父親と、連れ子を連れて再婚した母親との間の子供であり、その家族と兄弟をめぐる複雑な人間関係の中で相当苦労したらしい。
15歳でその頃日本が進めていた満州の開拓事業の一員として、引率する教員と一緒に国の政策のために中国に渡ることを自ら志願したのも家のためであり、両親のためだったのだろう。

母が満州に渡った時は太平洋戦争も終わりに近く、日本が無条件降伏する直前に旧ソビエトが満州に侵攻してきた。
すでに関東軍は民間人を残したまま、逃げるように引き揚げた後だった。
だから、満州では置き去りにされた民間人が、武器を持ったソビエトと中国に追われた。

母も半年もの間、中国の山河を逃げ回った。
数えきれない屍の中を逃げ続けた。
生き抜くために。

その時の話を聞いたことがある。
ソビエトの機銃掃射を受けた時、無我夢中で走る母のすぐ傍らを走っていた友人が後頭部に機銃の衝撃を受けると、大きく縦に体ごとくるくると回転して倒れていったという。
また地面や河には、人間と馬の死体がごろごろと転がっていたらしい。
そして夜になると、あちこちから無数の狼の遠吠えが近づいてくる。

母は昼も夜も生と死の極限状況を生き抜いて、新京まで辿り着き、そして日本に帰ってきた。
その経験も含めて、母はその人生の中で何度も死線を越えてきた。

母が肝臓の癌を摘出する手術の前、ストレッチャーにこれからまさに乗せられる直前、私の目を真っすぐに見ながら言った。
「人間はね。ただ『生きる』、それしかないんだよ!
頑張るとか、頑張って生きようとか、・・・そんなんじゃない。
人間、最後の最後は、ただ『生きる』しかないんだよ!」
そう私に言い残して手術室に運ばれていった。

母にとってこのまま生きて戻ってくるかこないかわからない、死も覚悟した人間の、ぎりぎりのところからの本当の言葉だったと、私は思う。

2 託された命

母の人生は家族のため、子供のためにあった。

4時間以上もの大手術が終わってまだ数時間しかたっていないその日の夜、病院のICUで母は鼻と口に酸素吸入のためのマスクをつけて懸命に呼吸していた。

まだ麻酔も切れていない状態だったが、とても苦しそうな顔をしていた。
その目にいっぱい涙を溜めていた。

私は今でもその時の母の顔を思い出すと、涙が溢れそうになる。
どうして母がこんなに苦しまなければならなかったのか、と思い出すたびに思う。

この手術の前に検査入院した時、カテーテルの管を内腿から体に入れた時、母はとても痛がった。手術してからずっと入退院を繰り返す度に、その両腕はもう点滴のために針を刺すところがないくらい真っ黒で固くなっていた。
ついには両腕以外のところに針を刺さなければならなくなった。

どうして母はこんなに痛みを味わわなければならないのだろう。
私はずっと思っていた。
自分さえ生まれてこなければ、母もこんな痛い思いをしなくてもすんだのに。

自分さえこの世に生まれてこなければ、母は輸血することも、C型肝炎になることも、肝硬変にも、肝臓癌になることも、手術することもなかったのに、と。

でも、母は亡くなるまで私のことを責めることも、私を産んで後悔したということも、たった一度も言ったことはなかった。

そればかりか、その手術の日の夜、やっと故郷に着いた兄と私と2人が、絶対安静でベッドに寝かされている母を覗くように立っているのを見つけると、母がおれたちに何か話しかけてきた。

「・・・・・・」

声が小さく、なかなか聞きとれない。

耳を寄せてみる。

「・・・・・・」

聞こえない。

もっともっと耳を寄せた。

母がつけている酸素吸入のマスク越しに、やっと母の声がかすかに聞こえてきた。

「た・・・べ・・・た・・・か?・・・」

「食べたか?」と聞いていたのだ。

母は自分が食べられないというのに、子供たちが夕食を食べたかどうかまだ麻酔も切れていない中で気にしていたのだ。

母はよく山鳩の話をした。
山火事が起きてあたり一面が火の海になった時、母親の山鳩は逃げられない子供の鳩をそのお腹の下に入れて守り、自らは焼け死んだという話を。

「鳩の親だってこんなに愛情深いのに、人間で子供を虐待したり殺すような親は動物以下じゃないのかな。動物のほうが偉いね」とよく言っていた。
その時の私は、その言葉の意味をそんなに重く受けとめていなかった。

でも、気づいてみると、私は今までずっと母に守られて生きてきた気がする。
私を産んだ時の輸血がもとで亡くなったということで、母は私の犠牲になって亡くなったのかもしれないけれど、母が身を捨てて私を何かから守ってくれたような、何かの盾になって死んでいったような、そして、最期に母が自分の命を私に託して逝ったような気がする。

きっと母はどこかで、私はお前の犠牲になったんじゃないよ。そんなこと考えなくていいから、お前はただ自分の幸せのことだけ考えればいいんだよ。

そう笑って、言っている気がする。

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