母の死

母が亡くなったのは2004年の1月10日だった。
それから5年以上経つ。

前の年の3月に肝臓の手術をした母は、それから10か月近く生き抜いた。
手術の後、母は3か月入院した。

退院してうちに帰ってからも、母は手術の傷と後遺症のためほとんど寝たきりになった。
そして、何度も熱を出したり、足に水が溜まったりして入退院を繰り返した。
それでもたまに体の調子がいい時は、無理に立ち上がって家族のために夕食を作ってくれる時もあった。

秋になった頃、ある朝母は急に、父が声を掛けても目を覚まさなくなった。
いくら呼び掛けても意識が戻らない。
すでに会社に行っていた私は、救急車で母を病院に連れて行ったという父からの連絡で、慌てて車で病院に駈け付けた。
その時は、数時間で母の意識は回復した。

医者に、これは肝性脳症というものだと言われた。
肝臓で解毒がうまくいっていないとアンモニアが溜まり、それが脳へ流れ、意識不明になるという説明を受けた。
それと、おそらくは長期的な利尿剤の投与がアンモニア濃度を上げたこともあったのではないだろうか。
そんなことが何回かあった。

母は再び長く入院することになった。
母が病院に入っても、相変わらず父も私も毎日付き添っていた。

父はそのためにずっと前に会社をやめていた。
私も休みの日は一日中、それ以外の日は会社が終わってから、母のもとに通った。
夜も交替で病院に寝泊りすることが多くなった。

母の容態は少しずつ良くなっていった。
医者がもうこれで大丈夫ですよと、太鼓判を押してくれるまでになった。
母の退院は12月31日に決まった。

大晦日のその日、私は父と兄と車に母を乗せてうちに帰った。
庭には明るい日の光を浴びて、山茶花の花が赤く満開に咲いていた。
その花を目にすると、母はとても喜んだ声で何度も言った。
「こんなに咲いたんだ。とってもきれいだね」

それはまるで母が帰ってくるのを待っていたように、何年かぶりに咲いた花だった。

うちに帰ってきたといっても、母は相変わらず寝たきりだった。
私達家族はまだ動けない母の身の回りの世話をする毎日を送っていた。

好きな鮨をとってあげた時、まだ母は1つも食べられなかった。
でも、母は食べられずに一人で部屋で寝ているだけなのに、嬉しそうな顔をしていた。
私は、母にどうしてそんなに嬉しそうなのか聞いてみた。
「家族がおいしそうに食べているのを想像していたからだよ。
今私もそこにいて、みんなと一緒に食べてるんだよ」と、母は言った。

母の様子が変わってきたのは退院して5日目くらいだったと思う。
母が少しずつ体の痛みを訴え始めた。
初めのうちはみんなそれは、長期間同じ姿勢で寝ているための床ずれではないかと思い込んでいた。
ところが寝ている姿勢をいくら変えてみても、母の体の痛みはますます強くなっていくようだった。

9日の朝、母を病院に連れていくために前日に予約した寝台付きのタクシーが来た。
母は寝台に乗せてもらう時、タクシーの運転手さんに手を合わせて合掌しながら、
振り絞るような声で「ありがとうございます」と、何度も、何度も繰り返し言っていた。
それが母の生前の、うちでの最後の姿だった。

病院に着いた日のその夜から、母の体はさらに激しく痛みだした。
すでに医者も帰っている時間だった。
母はうめき声をあげ始めた。
痛み止めもその時の母には全く効いていなかった。

私は病室で一人母に付き添っていた。
夜中に何度も何度も緊急用のブザーのボタンを押した。
病室に来たナースに先生は来ないのかと言うと、明日の朝でなければ来ないと言った。
もっと痛み止めの点滴の量を増やしてくれと頼み込んでも、
これ以上痛み止めを増やす許可が出ないと言う。
外科だけでは無理だと言う。

私は朝になるまで何度ナースを呼び続けたことだろう。
何度も、何度も痛み止めを増やしてくれることを頼み続けた。
でも、それは聞き入れてもらえることもなく、ついには何度ブザーを鳴らしてもなかなかナースは病室に来なくなった。
ナースセンターにも何度も押しかけたが、結局答えは同じだった。

最愛のひとが目の前でもがき苦しんでいるのに、私は何もできなかった。
母の痛みはもう正視できないほどだった。

まだ夜が明けきらないうちに、私は父と兄に電話した。

朝になってやっと医者が来た。
そして、母の兄弟や親戚が病院に集まってきた。
私からの電話の後、父がすぐに連絡を入れたらしい。

医者は母を一目見ると、なぜこうなったのかわからないと頭を振った。
「個室に移して下さい」と、医者は言った。
そして、しばらくして医者が父と、兄と、私に言った。
「ご家族の方にお話があります」
母を個室に移して下さいと言われた時に感じた予感が、私の胸を激しく締め付けていた。

狭い部屋の中で医者が険しい表情で口を開いた。
「覚悟しておいて下さい」
テレビドラマの中にあった、これとよく似たシーンを思い出した。
その時はまさか自分にこんな場面が訪れるとは想像もしていなかった。
自分は今までそんなドラマをずっと他人事として見ていたのだ。

私は聞いた。
「先生、おふくろはもう治る見込みはないんですか」
「おかあさんはもう、今以上よくなることはありません」
今のままか、もっと悪くなるかしかないと、医者は言った。

「先生、母の今の痛みをどうにかできませんか」
そう私が聞くと、医者は答えた。
「たった1つだけ方法があります。でも、それでも現状のままですが」
しかし、私達家族は、母のためにその方法しかもう選択することはできなかった。

病室に戻ると、母の痛みはもう極限ではないかと思う様子だった。
その時の母のことを思い出すと、今の私にはその詳細をここに書くことはできない。

でも、母は最後まで戦っていた。
母は最後の最後まで生きようとしていた。
それはこの世に生を受けた自分の命に対しての責任を果たそうとしているかのような、必死の戦いだった。

私は母の右手を握り締めた。
兄が母の左手を握っていた。
私は涙も拭かずにその時はまだ決して言いたくなかった母への別れの言葉を言った。
「おふくろ。おれを産んでくれてありがとう。一生懸命育ててくれて本当にありがとう」

母の手はまだあたたかだった。
まだ母の手のぬくもりは、私が幼かった頃抱きしめてくれたそのままだった。
母は何も答えられる状態ではなかった。
でも、きっと母の耳には聞こえているはずだ。
私はもう覚悟するしかなかった。

でも、その時母は、言葉にできないほどの痛みにもがき苦しみながらも、なお生きようとしていたのだ。

それから母は、今までの苦痛がなかったかのように昏々と眠り始めた。

病室に静寂が訪れた。
親戚が1人、2人と帰っていった。

母の寝顔を見た。

痛みと苦しみから解放されたかのような安らかな顔だった。
私は今、母のために何ができるのだろうと思った。
何もできなかった。
祈ることしかなかった。
母が生き続けることを。

もしかしたら、母はこのままぐっすりと眠った後、何もなかったかのように明るい顔で目を覚ますような気がした。
もうすべて良くなったよと、笑顔で起きてくれる気がした。

夕方私は1人うちへ母の着替えを取りに行った。
病院に帰ったら母の枕元で母が生き続けてくれることだけを夜通し祈るつもりだった。

うちに着いた私は、母の着替えを出しているうちに、疲れのためかそのまま眠ってしまった。

夢を見た。

母がいた。
夢の中では、母は病気ではなかった。
私が生まれてきてからずっと目にしてきた、健康なままの母の姿だった。

夢の中でたしかに母は元気に笑っていた。
やさしく包み込むような、慈愛に満ちた表情の母と私は一緒にいた。

でも、私が眠っている間にも、母との別れの時間は刻一刻と近づいていたのだった。

母の着替えを持って家を出たのは、夜の10時頃だった。
病院まで車で2、30分かかる。

道は空いていた。
夕方の母の容態からすると、今日はまだ持ち堪えるのではないかと思っていた。
その時がもし確かに訪れるとしても、それはまだ先のような気がしていた。
だからこそ母の着替えを取りに戻ったのだ。

私はゆっくりと車を運転していた。
街中が静かな夜だった。
いつも渡る橋の上から満月が見えた。

車が滑るように病院の駐車場に入った。
北の棟にある玄関のすぐ近くに車を止める。
救命救急センターの入り口の隣にあるその玄関は、夜間になると1つしかない入り口だった。

自動ドアを開いて中に入ると、夜の病院はひっそりと静まり返っていた。
どこも照明が落としてあって、入り口から先は長く薄暗い廊下が続いていた。
エレベーターに乗り、5階で降りる。
母の部屋へと向かう自分の靴音だけが、誰もいない夜の廊下に響く。

母のいる部屋の扉を開けた。
部屋に入るとすぐ左側に父と兄が並んで立っていた。
奥の窓際の、母の寝ているベッドに何人かナースがいる。
私が部屋に入ってきたのを見て、1人のナースが慌てたように声を掛けてきた。
「先ほど携帯に電話したんですが・・・、急におかあさんの容態が変わりまして」

気づかなかった。
私はポケットから急いで携帯電話を取り出した。
病院からの着信は、10時29分になっていた。
ちょうど駐車場に車を入れようとしていた頃だ。
ナースステーションで患者の脳波をモニターで遠隔で監視できるようになっていて、母のそれが変わったので、すぐに電話を入れたという。

慌ただしく母の担当の医師が部屋に入ってきた。
真っ直ぐに母のもとに行くと、手に持ったペンライトで母の瞳孔を確認する。
それから自分の腕に巻かれてある時計を見て、低い声で言った。
「10時40分・・・、お亡くなりになりました」
母の顔を見た。
その顔はまだ眠っているように見えた。

「私達も最善を尽くしましたが・・・、残念です」
医師が申し訳なさそうに口を開いた。
「先生・・・おふくろは先生のこと・・・すごく気に入っていたみたいで・・・、一生懸命やってくれるいい先生だって・・・、だから先生にこうして・・・最期に・・・看取っていただいて・・・、おふくろはきっと・・・幸せ・・・だと・・・思い・・・ま・・・す・・・」
言っている途中から涙が止まらなくなった。
あとは言葉にならなかった。

私は両手で母の手を抱きしめるように握った。
もう血の廻っていない母の手はまだ冷たくなっていなかった。
その手はとてもやせ細っていて、しわくちゃだった。
皮膚もがさがさだった。
腕にはたくさんのしみができていた。
数え切れない注射や点滴の痕や、鬱血による黒く大きなしみがいくつもあった。

でも、それは、数え切れない苦労をしてきた手だった。
計り知れない痛みを耐えてきた腕だった。
家族と子供のために毎日野菜や食器を洗い、米を研ぎ、食事や弁当を作り続けてきてくれた手だった。
洗濯をし、干し、きれいに畳み続けてくれた手だった。
夜遅くまでアイロンをかけ、縫い物をしてきてくれた手だった。

子供時代の母は、親を手伝って信州のきびしい冬の凍りつくような冷たい井戸水で毎日洗い物や洗濯をしてきたという。
毎朝山へ薪を拾いに行き、田畑を耕し、家畜の世話をしてきたという。
母の手は、家族と子供のために朝早くから夜遅くまで精一杯家事をしてきてくれた手だった。

子供を産んで、必死に育ててきてくれた手だった。
病気の両親をいたわってきた手だった。
生と死の極限の中を何度も生き抜いてきた手だった。
そして、家族を長い年月一生懸命愛し、支えてきてくれた手だった。

母はこの手で、腕でどれだけ家族を支え、尽くしてきてくれたのだろう。
この手で、腕でどれだけ家族を愛し、抱きしめてきてくれたのだろう。
どれだけ人を愛し、力になってきたのだろう。
この手で、腕で母はどれだけ涙を拭いて、どれだけの悲しみを乗り越えてきたのだろう。
どれだけの苦しみと痛みを乗り越えてきたのだろう。

母の手は最期まで生きるために戦い抜いた手だった。
母の手は精一杯人を愛し、人をやさしくいたわってきた手だった。
最期まで命を燃やし尽くした手だった。
そして「生きる」という、自分の責任を最後の最後まで果たし抜いた手だった。

私は母の手を両手で包み込んだまま、泣いた。
母の顔は安らかだった。
もう苦しい思いも、痛い思いもすることはない。

「おふくろ・・・いままでずっとずっとありがとな。
おふくろの息子で・・・おれは本当によかったよ。
おれを産んでくれて・・・、育ててくれて・・・、本当に・・・、本当にありがとうございました」
今度は、自然と口から言葉が出ていた。
あとからあとから涙が溢れてきて、止まらない。

ふと今、母の魂は体から離れて、この部屋の天井から今の私を、父を、兄を見ているのだろうかと思った。
そして、私は零れ落ちる涙も拭かず、天井を長い間ずっと見つめていた。

母の亡骸はきれいに死化粧され、病院の霊安室に運ばれた。

死装束に着替え両手を合掌した母に覆いかぶさるように強く強く抱きしめながら、
父が体を震わせながら泣いている。
「おまえは・・・本当に・・・本当に・・・、日本一の女だった!」
父は大粒の涙を零しながら何度も、何度も大声で叫び続けた。
訃報で再び集まった母の兄弟や親戚、友人が
一人残らず泣き崩れながら、口々に母に呼び掛けている。

駐車場には、煌々と月の光が射していた。
亡骸となった母が帰ってくる前に私は一人車でうちに向かった。

たった数時間前に出てきた家は、真っ暗だった。
鍵を開ける。
一部屋一部屋電気をつけていく。
どの部屋の照明も煌煌とつけていく。
何か月も母が寝たきりになっていた畳の部屋の照明も最大にした。
この部屋で母は手術後ずっと寝ていることが多かった。

この部屋は川のすぐそばにあって、夜には川のせせらぎが聞こえてくる。
夜中になるとその川には時々白い鳥が二羽佇んでいるのが部屋から見えた。
「白鷺の夫婦だね」
いつか母が私に教えてくれた。
夏には夕方網戸にしておくと、涼しくて気持ちのいい風が入ってきた。

八畳のこの和室は川沿いの窓際に短い廊下があり、それを合わせると十畳ほどになる。
また庭に面した窓の内側にある障子戸の前には、
母が嗜んだ書道のための古い木製の座り机が置いてあった。

部屋の奥には母が元気な頃、毎日花を活けて飾っていた広い床の間もあった。
そして、その床の間のすぐ近くに、母のために揃えたベッドが置かれてあった。

この部屋は母が元気な頃からのたくさんの思い出が詰まっていた。
この部屋にもうすぐ母は亡骸として帰ってくる。

母を乗せた車がうちに着いた。
布団を敷いて、みんなで母を寝かせた。
両腕で抱えた母の体はとても小さく感じた。

夜中に葬儀屋が来て、これからの段取りをして帰っていった。

1月の寒い夜だった。
凍て付くような信州の冬の季節だった。
部屋の暖房をつけたまま、私は母の眠っている部屋のすぐ隣にある居間の炬燵で横になった。

何も考えられなかった。
母が突然逝ってしまったことが、まだとても受け入れられなかった。
私は母が亡くなったことをまだ認められずにいた。
母が亡くなったと医者に言われても、母の亡骸を見ても、その時私は、どうしても母が死んだということを信じたくはなかったのだ。

私は、いつの間にか寝ていた。
突然誰かの叫ぶ声と、何かがぶつかるような音で目が覚めた。
それは母が眠っている部屋からだった。

横になったままそっと目を開けると、父が眠ったままの母の傍らで一人泣いていた。
そして、母の体に触れながら叫んでいた。
「冷たいじゃないか!誰がこんなこと、したんだ!」
父はそう叫んで、母の浴衣に葬儀屋が詰めたドライアイスを一つ一つ取り出しては台所の流しに持っていき、投げ捨てていた。
一緒に炬燵で寝ていた叔母がそれを見て泣いていた。

母の亡くなった時間のことをふと思った。
医師が部屋に来て母の死亡を確認したのは10時40分だった。
でも、ナースステーションから電話が入ったのは29分だった。
死というものが魂が肉体から離れた時刻をいうのなら、きっとナースステーションからの電話があった時間ということになる。
昨夜、父と兄と話した。
その時間は、父も兄も病院のすぐ近くで遅い夕食をとってちょうどその店を出て、母の部屋に帰ってくる直前だったらしい。
私も駐車場に車を入れようとしていた頃だった。

母の死亡時刻をもしそう捉えるならきっと母は本当は、私も、父も、兄も部屋に戻ろうとする数分前に逝ったのかもしれない。
人の心配はするけれど、いつも家族に心配をかけないように生きてきた母は、もしかしたら、まだ家族が誰も部屋に戻ってはいないその時刻を選んだのかもしれないと、私は思った。

私は、早朝に目を覚ました。
窓を開けた。
青く晴れ上がった空に山際からちょうど太陽が輝きを増しながら昇ってくるところだった。

その光は一瞬強く輝いたかと思うと、あたり一面を眩しく照らし出し、目も眩むようだった。
人間が魂だけになって行くその世界も、もしかしたらこれとよく似た風景なのかもしれないと、ふと思った。

そして、まるで母がこれから行こうとしているその世界に、自分も今いるような気がした。

母を火葬場に連れて行く時、私が望んだたった一つのことは、
少し回り道になっても、母が生前ずっと好きだった並木道を通っていくことだった。

家の近所に、両側に青々とした大きな木が何本も植えてある広い並木道があった。
母は、その道がとても好きだった。
「この道は広々として、とても気持ちがいいね」
よく母が言っていた。
だから、私は母を車に乗せて買い物に行く時も、美容院に行く時も、
お花を教えに行く母を乗せる時も、そして、病院に行く時も、
必ずといっていいほど母と一緒の時は、その道を通った。

だからこそ、最後に母が通る道も、その道にしてほしいと、私は葬儀屋に頼んだ。

棺に乗った母が霊柩車で静かに家を出ると、近所の人達が黙ったまま
それぞれの家の前に立って深々と頭を下げて、母を見送ってくれているのが見えた。

霊柩車に乗った母と一緒に並木道に差し掛かると、
その道は広く一直線に空まで伸び、その先はまるで青い空に繋がっているように見えた。

そして、たくさんの思い出を踏みしめるように、ゆっくりとその道を車は進んで行った。

市街を一望する小高い山の中腹に、これから母の亡骸を焼く火葬場があった。
母を乗せた車は、「七曲がり」と呼ばれている少し急な坂を幾度となく左右に大きく曲がりながら上っていく。
標高が高くなるにつれ、坂の途中からしだいに雪が舞い始めた。
火葬場に到着すると、辺りはもう一面白くなっていて、空がぼんやりと霞むくらいに雪が降ってきているところだった。

母との最後のお別れだった。
母の顔を見るのもこれで最後だった。
棺はおもに顔のところだけ見えるようになっていた。
母は棺の中で、うちを出る時に多くの人によって入れられたたくさんの花に包まれていた。
私は母がかわいいといつも言っていたぬいぐるみも入れた。

母の顔は最後までやさしかった。
私は、心の中で母に語りかけた。
「おふくろ、よく頑張ったな。
あんなに痛かったのに、あんなに苦しかったのに、最後まで生きること、あきらめなかったな。
ごめんな。
こんな息子でごめんな。
最後まで何の親孝行もできなくて本当にごめんな。
でも、おれはおふくろのこと、絶対に忘れないから。
あなたに産んでもらったこと、
あなたに育ててもらったこと、
あなたに愛してもらったこと、
おれは絶対に、絶対に忘れないから。
おふくろ、ありがとな。
もうゆっくりと休んで。
おれはおふくろのこと、愛してるから。
ずっと思っているから。
ゆっくりと休んで」

母の棺が火葬炉の中へと入れられ、扉が閉まった時、
私は今まで自分の心の中にずっとあった一番大切なものを失ったと思った。

あんなにやさしかった母が、自分がずっと愛していた母の体が燃やされ、灰になっていくことがとても耐えられない思いだった。

母が灰になるまでの間、みんなが時間を過ごしている待合室から一人抜け出した。
私は、高い煙突から白い煙となって立ち上っていく母をじっと見ていた。

雪は止んでいた。

空は晴れていた。

白い煙は青く澄み渡った高い空へとどこまでも上っていき、
広がって、やがて見えなくなった。

母の葬儀にはたくさんの人たちが集まった。

母の昔からの友人の一人がスピーチをした。
「さだちゃんが亡くなって、私は悔しいです」と、言った。
突然の訃報に母と親しかった人たちは、きっとみんな同じ気持ちだったのだと思う。

たくさんの花に囲まれた祭壇の上の写真の母は、やさしそうに微笑んでいた。
母はどんな時も決して微笑みを忘れなかった。
母はいつも人のことばかり考えていた。
母はどこにいてもいつも明るく、その場を和やかにしようとしていた。

母はただそこにいるだけで、そこにいる人をやさしく穏やかに包み込むような雰囲気があった。
だから、私のうちはいつも母がいるのと、いないのとでは全く違った。

母はまるで花のような人だった。
私は母のためにお焼香をしてくれている参拝者の方々にその都度礼を返す時以外は、ずっと泣いていた。

母が昔、私に言ったことがあった。
「お前とは言葉にできない何か深い運命みたいなものを感じるよ」
その通りだった。
母を亡くすことが、自分にとってこんなに辛いことだとは思わなかった。
母はまだずっと、この先何年も生きるのだと思っていた。
思いがけないこのようなかたちで、最愛の母と別れなければならなくなるとは、全く考えもしなかった。

葬儀が終わり、親戚も帰り、最後に何日かいた兄が帰ると、家は父と私だけになった。
家の中はがらんとしていた。
すべてが静まり返っていた。
当たり前のことだったが、どこにも母の姿がなかった。
母の声が聞こえなかった。
二人で住むには、今ではこの家は広すぎた。

四十九日が過ぎて、母がずっと寝ていた畳の部屋に父と兄と三人で選んで買った、母のための仏壇を置いた。
そして、その仏壇の上に母の写真を飾った。
母の好きだった花を供え、毎日母の前の水を取り替え、線香を焚いた。

私は、母の位牌と写真に向かってくる日もくる日も朝と夜、声を上げてずっとお経を唱え続けた。
夜、正座したまま気がつくと、3時間も4時間もたっていた。
足が痺れていることも忘れてずっと座っていたのだ。

私は、母のために毎日たくさんのお経をあげ続けた。
-母のこれから行く旅路が決して寂しくないように
たった一人で道に迷わないように
目に見えない、もし母を加護してくれる力があるのなら、どうか
母を守ってください。-
私がもう母にしてあげられることは、母の冥福を祈ることしかなかった。

肩や足を揉んであげることも、痛いところをさすってあげることも、痒いところを掻いてあげることもできなかった。
話をすることも、話を聞いてあげることも、聞いてもらうこともできなかった。
笑い合うことも、一緒に泣くことも、冗談を言うことすらできなかった。

祈ることしかなかった。
母の冥福を祈る以外、他に何もできることはなかった。

その時、私には何の望みもなくなってしまった。
生きていく希望を失ってしまった。

その時の私には、人生にはもう何も残っていない気がした。

10

私が今住んでいる自宅のベランダには、鉢に植えられたくちなしがある。
毎年のように白い花を咲かせ、甘い香りを放っている。

それはもとはというと、母が昔、近所の家から枝を一本だけ譲ってもらってきたものだった。
母はそれを挿し木から自宅の庭で丹精を尽くして育て上げ、増やした。
私は、その何本もの中から一本を植木鉢に移し替えて、引っ越しの度にそれだけは大事に持ってきた。

近所の家というのは、高校で園芸科を教えていた先生の家だった。
その先生は母に、「くちなしの木は挿し木から育てるのは無理ですよ」と、言ったそうだ。
それでも母は、そのくちなしの挿し木をさらに根が張りにくく育ちにくいと言われている真冬の2月に庭に植えて、育て上げたのだ。

私は、父と長野の家をあとにする時、母の思い出のそのくちなしを植木鉢に植え替えて埼玉へと持ってきた。
母の形見だった。
今は東京の自宅のベランダにある。

私はそのくちなしの白い花が咲く時、陽の光を浴びるその緑の葉に触れる時、その甘い香りを嗅ぐ時、決まって母のことを思い出す。
そして、その度にそれは、ありのままの自分として、かつて自分が産まれた時から何十年も母にずっとずっと愛されてきた紛れもない事実を、いつでも私に思い出させてくれる。

5年という歳月を経て、私は今やっと過去のことを振り返れるようになった。
私は、母のこと、父のこと、家族のこと、そして、過去の自分自身のことをできる限り克明に思い出そうとした。
そして、その過程で、過去は自分を辛く傷つけてきたかもしれないけれど、実は今の自分自身を癒してくれる大きな力もその中に眠っていることを知った。

あの日から歩き続け、癒され、変わり続けてきた今の私にとって自分自身を癒すということは、過去の自分を癒すことに他ならなかった。
そして、過去の自分を癒すには、自分の過去と向き合わなければならなかった。

私は、今までどこかでずっと辛かった過去から逃げていた。
でも、過去から逃げている限り、辛い過去は追いかけてきた。
今の自分は過去の自分を忘れても、過去の自分は今の自分が訪れてくれるのをいつまでも待っている。

今私は、辛い過去から、悲しい思い出から目をそらさないでいられるようになった。
今の自分が幸せになるにしたがって、どんな辛く苦しい過去であっても、そんな過去のすべてをまるごと今の自分が受け入れてあげられるようになる。
それが過去の自分を癒し、自分自身を癒すことになるのだと私は思う。

時々今もしここに母がいたらどうしているだろうかとか、もし母が肝臓癌にならなかったらどんな人生を送っているだろうと考える時がある。
でも、これが私と、母と、家族の運命だったのだ。

今、目を閉じると、辛いことや悲しいことだけでなく、楽しかった時、幸せだった時の母のこともはっきりと思い出すことができる。
一度亡くなった母が今自分の心の中で再び生き始め、息づき始めている気がする。

そして、いつも月を見る度に、空を見る度に、くちなしの花を見る度に、
風にそよぐ緑を見る度に、朝の光を浴びる度に、幼い子供たちの顔に笑顔が浮かんでいるのを見る度に、
そして、母と同じくらいの女の人たちを目にする度に、
それは、母に確かに愛された、揺るぎない記憶となって、
いつでもどこでも私を大きくやさしく包み込み、生きていく力となって、
私を強く導いていてくれることを、今私は知っている。

私は母を失ったのではなかった。
私は何一つ母を失ってはいなかったのだ。

私の中で、いつでも母は存在している。
そして、私のまわりの世界にも母はかたちを変えて、いつでもどこでもそこかしこに存在しているのだ。

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