介護の日々

母が手術をしてから亡くなるまでの10か月、介護の日々を過ごした。

母がうちで寝ている時も、入院している時も介護をしていたのは、叔母と、父と、私の3人だった。
兄弟の中ではたった一人の妹である叔母を、母はとても頼りにしていた。

叔母はよくうちに来て、何日も泊まっていってくれた。
母の心の支えになってくれ、身の回りのことをほとんどやってくれた。
父も私も、叔母には本当に助けられたと思う。

ただ叔母にも家庭がありなかなか来られない日が多くなると、母の世話のすべてを、父と私がやるようになった。

着替えも、体を拭くことも、水を飲ませてあげることも、食べさせてあげることも、おむつを替えることも、
床擦れにならないように体の向きを頻繁に変えることも、むくんだ両足と手をしょっちゅう揉んであげることも、
痛いところを擦ってあげることも、痒いところを掻いてあげることも、
食事を作ることも、入浴も、洗濯も、必要なものを買い出しに行くことも、話し相手になることも・・・。
そして、母がうちにいる時も、病院にいる時も、隣で寝たり、泊まったりすることも多くなった。

私は会社に勤めていたので、週に休日は1日だったが、平日は朝と夜に母の介護をした。

母が入院している時、仕事が終わってから毎日のように病院に通った時のことを、今でもたびたび思い出す。

母は私がどんなに夜遅く部屋を訪ねていっても、いつも待っていてくれた。
わずかな灯りのともるだけの病室に私がそっと入っていくと、母はどんなに寝ていても、すぐに起きてきた。
1日の仕事が終わってからやってくる私のために、母は自分があまり食べられなかったと言って夕食やヨーグルトなどをそっくり残していた。

母のところに行くたびに、私は横になっている母のむくんでいる両足の腿から足の先まで揉んであげた。
それは大抵いつも水が溜まりぱんぱんに張っていて、いつも母は辛そうだった。
それはとても固くなっていて、強い力で時間をかけてずっともみほぐし続けなければ、なかなか元のように柔らかく血色のいい状態にはならなかった。

「ありがとな・・・ありがとな・・・」
母は遠慮しながら、何度も何度も繰り返し私に言った。

病院の中はすっかり寝静まっていて、廊下もどこもほとんど何の物音もしなかった。
夜の静まり返った空間の中に、母と私だけがいた。

「もういいよ。お前も仕事で疲れてるんだから、早く帰って寝な」
母が私を気づかって言う。

私は母に水を飲ませ、おむつを替え、着替えを手伝った。
それから新しい着替えを置いて、母が今まで着ていたパジャマや下着を手提げ袋の中に入れた。
そして、隙間のないように毛布と掛け布団を母にかけた。

ベッドの中で精一杯微笑んで見送ってくれる母の顔は、いつもどこか淋しそうな気がした。
私は母の顔を見ただけで、その日の嫌なことも全部忘れられた。
1日の疲れがとれる気がした。

「明日また来るよ」
私はいつも明るく笑いかけながら病室の扉を閉めた。

誘導灯しか点いていない薄暗い夜の廊下をとぼとぼと一人歩いて帰っていく時、私は決まって泣きたい気持ちになった。

もう夜中近くになろうとしている病院から一人きりで車を運転しながらうちに帰る時、私は心の中でいつも問いかけた。

どうして母のような人がこういう運命を生きなければならないのだろう、
神様はなぜ母を選んだのだろう、と。
でも、いつも答えはわからなかった。

その答えは今もわからない。

ニュースでしばしば長年の介護の疲れから起きた心中や殺人といった事件が報道される。

それはとても残念なことだけれど、私自身経験が全くないというより10か月介護を続けてきた者として、そういう人達の蓄積していく疲れというものが少しはわかる気がする。

介護をしている時は、自分の時間などほとんどないと言っていい。

その頃の父と私の体には、正直言って何か月もの介護による疲れがたまっていた。

それでも自分の母だった。

私を命がけで産んでくれ、限りない愛情で私と兄を育ててくれて、家族のために一生懸命尽くしてきてくれた母だった。

それにもとはといえば、私を産んだ時の輸血がもとで、母はここまで苦しんできたのだ。

だから、自分のためではなく母のために生きようと、あるいは母の身の回りをすることこそ自分のためなのだと私はそう自分に言い聞かせながら、疲れた自分の体に鞭打ちながら母のために介護を続けた。

介護は私にとって自分との戦いだった。

たまっていく体の疲れと、睡眠不足との。

 

あの頃の私と父の体は、正直言ってへとへとだったと思う。

辛いことも、切ないことも、あの頃は何度も経験した。

今思うと、何かに試されていた気がする。

そして、その頃の私は、その見えざる何かと必死で戦っていた気がする。

そして、その時の母もまた、私達以上に必死で戦っていたのだ。

 

母が亡くなって2年近くたって、長野のうちを父と後にする時まで、母のために用意した大量の新しい紙おむつをずっと捨てられずにいた。

母の服も、下着も、ところどころに固く茶色に変色した血がこびり付いていた毛布も、ずっと捨てられなかった。

それは、私にとって、あの頃の母がただひたすら生きるために戦ってきたかけがえのない証しだったからだ。

3 母からの最後の贈り物

あの頃辛い手術を終えた母は、熱を出したり、足やお腹や全身に水が溜まったりして、とても動けるような体ではなかった。

だから、水を飲ませたり、食べさせたり、着替えさせたり、体を拭いたり、おむつを替えたり、

痛いところを擦ったり、痒いところを掻いてあげたり、手や足を揉んだり、

そして、入浴させたり、母の服や下着を洗濯したりした。

そして、話を聞いてあげたり、冗談や楽しい話を一生懸命したりもした。

 

最近気づいたことがある。

それは、実はそのまま自分が産まれた時から子供時代、母にずっとしてもらっていたことだったのだと。

 

誰かを愛するとは、まさしく行動することであり、実践することだったのだ。

母は、ずっと私や兄が子供の頃から嫌な顔一つせずに身の回りの世話をしてくれていた。

母はまさしくずっと長い間、私や兄や父を、家族を愛してくれていたのだ。

 

私は、ずっと自分の過去を振り返ってきた。

そして、母が自分にどれだけのことをしてきてくれたのかを少しずつ思い出すことができた。

すると、自分がずっと忘れていた、母に自分がいかに無条件に愛されてきたのかということにようやく気がつくことができるようになった。

そして、その揺るぎのない事実は、きっとこれからの私の生きていく強い力になっていくのだろう。

 

そして今、私は、私自身も、過去にたった10か月という、母に比べたらあまりにも短い期間だったかもしれないけれど、母に精一杯尽くしてきた事実を思い出した。

 

それは、もしかしたら母の愛情に比べたら、完璧とは言えない、あまりにもお粗末で、雑な行動だったかもしれない。

もう少しやってあげられることもたくさんあったかもしれないし、疲れて内心嫌になったことも正直あった。

 

でも、そんな後悔することも、反省することも、もっとやれることがあったかもしれないと思うことも、

疲れていてももっと心を込めてしてあげたほうが良かったと思うことも、

すべて含めてその頃の私は、精一杯生きていたと思う。

 

母のことを一途に思い、母を楽にしてあげたいという一心で母の介護を続けた。

それこそ母に与えてもらった、人を愛するというとても貴重な経験だったのかもしれないと、今になって思う。

 

ありのままの自分として母から愛されたという経験は、私にとって生きる上でとてつもなく大きな力を与えてくれることであるとともに、それがどんなかたちであれ人を愛したという経験も私が生きていく上でまた、強い力と自信を与えてくれるのではないだろうか。

そして、母はその人生の最後に自分を通して私に人を愛するという、かけがえのない大切な、大切な経験をさせてくれたのではないだろうか。

 

私は、今まで母に何もしてあげられなかったと思っていた。

でも、私もその時実は精一杯いろいろなことを母にさせていただいていたことに気づいた。

それは、「してあげた」のではなく、まさに「させていただいた」という言葉の方がぴったりする。

 

そう、私はあの時母を精一杯愛したのだ。

私も過去に人を精一杯、一生懸命愛してきたのだ。

 

私は、母が生きている間数え切れない愛情という贈り物をずっともらってきた。

そして、母からの最後の贈り物は、まさしく人を愛するという経験と、自分も人を愛せるのだという自信そのものだった。

 

そのことに気づいた時、私は、母からの命をかけた、この上なくあたたかい心のこもった最後の贈り物を自分がずっと受け取っていたことにやっと気づいた。

 

おふくろ、ありがとう。

あなたはおれにとって本当に最高の母親でした。

あなたが自分の体と命と引き換えにしておれに贈ってくれた最後の贈り物、今しっかりと受け取ったよ。

おふくろ、本当にありがとな。

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