故郷を離れる日
1
私は、故郷を離れることになった。
長年父と母と一緒に暮らしてきた家は、人手に渡ることになった。
私も、父も、この家を引き払う準備を始めた。
改めて気づいたのは、家中にある物だった。
家具、電化製品、寝具、服、日用品に至るまで、ありとあらゆる物があった。
庭には、多くの植物や木が植えられていた。
鉢に入った花や植物も、いくつも整然と置かれていた。
家の中にもたくさんの観葉植物が並べられていた。
それは大変な量だった。
あとわずか1か月のうちに、家の中をすべて空っぽにしなければならなかった。
父と私は、来る日も来る日も家中の物の整理と処分に追われた。
母にまつわる物も多かった。
母は昔から物を大切にしてきた人だった。
私にとって母の物を一つ一つ取り出して処分していくことは、とても辛いことだった。
一つ一つの物に、母の思い出が強くつながっていた。
手に取る度に、母の顔とともに、その時の情景が鮮やかに蘇った。
まるで目の前に、母の姿が見え、母の声が聞こえてくるようだった。
こらえきれず母の物を手にしたまま、一人泣くこともよくあった。
気持ちが治まるまでは、次の物に手がつかなかった。
その度に引っ越しの作業は、なかなか進まなくなった。
自分と父の服にも、毛布や布団カバーなどの寝具にも、下着にさえ、母が毎日夜遅くまでていねいに工夫して縫い物をしてくれていた跡が残っていた。
それらを目にすると、熱いものが込み上げてきて、胸が一杯になった。
母が大切に仕舞っていた写真もたくさんあった。
さまざまな場所で、仲のいい友人や、仲間や、家族と一緒に笑顔の母が写っていた。
どの写真の母も、とても幸せそうに見えた。
それらを一枚一枚手に取りながら、私は、母の人生は、辛いことや苦しいことだけではなく、きっと楽しかったことも、心の底から笑ったことも、穏やかで平和に満ちた瞬間も、数限りなくあったのだと思った。
母が華道の先生になった時に玄関に掲げた看板も、たくさんの花器も、花鋏もあった。
母は、結婚して子供が産まれてからも、家庭と両立させながらできることを見つけた。
それが、華道の先生だった。
家元の所へ通い続け、師範の資格を取った。
そして、多くのお弟子さんに華道の素晴らしさを伝え続けた。
それは、母のライフワークだった。
母が一生懸命稽古を続けて得たその看板は、今も私のそばにある。
形見となってしまった母の洋服や、バッグや、アクセサリーは、叔母さんや、母の友人の方々に分けた。
それらは、母にゆかりのある人たちに着てもらい、身につけてもらいたかった。
母も、きっと喜んでいるはずだった。
「お前が結婚したら、お前の嫁さんに着物でも何でもみんなあげるんだ」
母は、昔私にそう言っていた。
でも、それは結局実現しないままになってしまった。
着物はすべて、叔母さんに持っていてもらうことにした。
母が長い間丹精を込めて育てた、大小さまざまな種類の植木や植物は、庭のほとんどを覆い尽くすほどあった。
何本もの植木や花は、親戚にあげた。
何度も来てもらい、運んでもらった。
その度に、みんなで庭の土をスコップやつるはしで掘り起こし、軽トラックの荷台一杯に積み込んだ。
母の愛した花や植物は、きっと母の想いとともにこれからはいろいろな庭でさらに大きく育ち、毎年のように美しい花を咲かせていくことだろう。
庭にある植木や植物は、それでもまだ3分の2以上が残っていた。
それは、もうこの家に来る新しい家族に引き継いでもらうことになった。
川の向こうには、家族で借りていた畑があった。
母は、そこで土を耕し、たくさんの野菜を作った。
畑仕事は、元気な頃の母の生き甲斐でもあった。
手ぬぐいを頭にかぶり、畑の中で陽の光を一杯に浴びて楽しそうに笑っていた母の顔を、私は今でもはっきりと覚えている。
その畑は、近所の親しかった人があとを借りることになった。
家具も、電化製品も、インテリアもほとんどを人にあげたり、処分した。
最後まで譲る人が見つからなかった家具もあった。
それらは、新しい住まいに持っていくには大きすぎたり、不用だったりした。
それらを処分するためには、ばらばらにするしかなかった。
私と父は、懐かしい思い出のたくさん詰まった家具を一つ一つ壊していった。
私は、壊す前にその一つ一つをていねいに写真に収めた。
処分する物は大量になった。
20代の頃、私は東京から故郷に帰ってきた。
その時は、自分が再びこの故郷を離れることになるとは、全く想像もしていなかった。
もう自分は、死ぬまでこの土地を離れることはない、と思っていた。
残りの人生は、終わりが来るまでここで穏やかに過ぎていくものだ、と思っていた。
自分が死んだ時は、この故郷の土に還るのだとばかり思っていた。
ここを出て行くと決意した日から、まだ1か月も経っていなかった。
人生は、本当に想像もつかないことが起こるものだった。
運命というものは、計り知れなかった。
私は、人間の運命というものを、その奥で動かしている不可思議な力の正体を、大いなる存在というものを、この時強く感じていた。
壊した物は廃棄したり、焼却場に持っていく物もあったが、大部分は畑で燃やした。
その中には、闘病していた頃の母のために用意しておいた大量の紙のおむつや下着もあった。
それらを燃やしながら私は、今はすべての痛みや苦しみから解き放たれている母を想った。
一つ一つが数えきれない思い出とともに、白や灰色の煙となって空高く上り、やがて吸い込まれるように消えていった。
あとには、灰だけが残った。
私は、消えていった煙の行方を、いつまでもずっと追いかけていた。
2
故郷を去る日が来た。
家を明け渡す時間は、決まっていた。
時間になる直前まで、私は残りの荷物をまとめていた。
車に最後の荷物を載せ終わった時、この家の新しい家族が不動産屋と一緒にやってきた。
私と父は、家のすべての鍵を渡した。
いよいよこの家とのお別れだった。
車に乗り込む前に、私は家の前に立った。
長い間世話になったこの家に、別れを告げるためだった。
この家は、父と母が新しい土地を買い、2度目に建てた家だった。
以前住んでいた家は、別の土地にあった。
そこは、大通りに面していたため交通量が多く、夜も騒がしかった。
ここに来たのは、もっと静かな所で暮らしたいという理由からだった。
川がすぐ隣にあって、せせらぎの音が聞こえてくる閑静なこの家を一番気に入っていたのは、母だった。
それから20年近く家族で暮らした。
家の中も、周りも、語り尽くすこともできないくらいたくさんの思い出が染み付いていた。
見上げると、家はちょうど西に傾きかけた陽の光を一杯に浴びているところだった。
玄関のそばには、いつか母が最後に退院した時、満開の花を咲かせて迎えてくれた山茶花があった。
今は花もなく、ひっそりと無言で私達を見送ってくれていた。
1階の軒先に目をやった。
庭に面したそこには、昔、竹で作られた細長い椅子が2つ並べて置いてあった。
そこは、父と母がよく座って、二人で楽しそうにお茶を飲んでいた場所だった。
でも、今は、その椅子もなかった。
庭にあるすべての植木や植物が、残らず私と父に、静かに別れを告げている気がした。
川の向こうにある畑には、きっとこれからも光が降り注ぎ、毎年たくさんの野菜が育つだろう。
でも、もうそれを見ることはない。
私は、車に乗り込んだ。
車の窓から、最後に一度だけ振り返った。
2階の自分の部屋だった所の窓ガラスに、西日が当たっていた。
その向こうには、真っ青な空が見えた。
ガラスに反射した光が、その一瞬、きらきらとまばゆいばかりに自分の目に飛び込んできた。
この家を見たのは、それが最後だった。
インターチェンジに向かう時、母がずっと好きだった、あの並木道を通った。
棺に入った母が、最後に通った道だ。
私は、母を乗せて、何度もこの道を車で走ったことを思い出した。
きっと自分の残りの人生の中で、この道を通ることはもうないだろう。
私は今、目の前の景色を、この道で見えるすべてのものを目に焼き付けようとしていた。
車が、インターチェンジに入った。
高速道路を走り出すと、今自分がいたばかりの街が、夕映えにまぶしく輝きながら真下に広がっているのが見えた。
私達家族が、ずっとずっと長い間、生まれ、育ち、暮らしてきた街だった。
そして、もう二度と暮らすことのない街だった。
私は、この街で生まれ、この街で育った。
この街に帰ってきた時には、自分はきっと死ぬまでここで暮らすことになる、と思っていた。
私がかつていた幼稚園も、小学校も、中学校も、高校もみんなこの街の中にあった。
私は、この街で泣き、笑い、叫び、もがき続けた。
この街には、愛も、ほほえみも、やさしさも、喜びもあった。
恨みも、憎しみも、怒りも、悲しみもあった。
この街には、私のすべてがあった。
私の限りない思い出が埋まっていた。
でも今、すべてを越えて私の街は、夕映えの中で美しく輝いていた。
そして、きっとこれからは、この街は、私の心の中でいつまでも生き続けていくことだろう。
トンネルに入ると、もう街は見えなくなった。
ハンドルを握りながら、今こうして故郷を離れようとしていることが、私にはまだ信じられなかった。
東京から帰ってきた頃、まさか自分が再びこの街をあとにすることになるなんて、誰が想像できただろう。
人生とは、何だろう。
人間とは、何だろう。
私は、どこへ行くのだろう。
どこに向かっているのだろう。
私は、何のために生まれ、死んでいくのだろう。
車が進んでいく度に、故郷が、どんどん後ろへと遠ざかっていった。
思い出が、どんどん後ろへと遠ざかっていった。
私は、自分の今までの人生であった、いろいろなことを思い出していた。
いくつかのトンネルを抜け、車が群馬県との境にある碓井峠を越える時には、辺りはもうすっかり夜の闇に包まれていた。
車を走らせながら、私も、父も、今、人生の中の真っ暗な道をただひたすら疾走している気がした。
どこかにある夜明けをめざして。
埼玉の兄のマンションに着いたのは、真夜中近くだった。
その日は、兄の所に泊まった。
その夜私は、布団に入っても、目が冴えてなかなか眠れなかった。
私は、明日から始まるここでの新しい生活をあれこれ考えていた。
でも、結局何もわからなかった。
私は、もう何も考えないことにした。
ただこの先自分の人生でどんなことが起こっても、きっとあまり驚かない気がした。
一度はもう人生を捨てたようなものだったからだ。
翌日のニュースで、私と父が家を出た数時間後に、故郷にその冬初めて雪が降ったことを知った。
しかもそれは大雪で、随分積もったということだった。
夜大雪の降り続く道を車で走る苦労は、身にしみていた。
車のタイヤも、冬用には換えていなかった。
そのニュースを知った時、私は、母がきっといつもどこかで、ずっと私達家族を守ってくれていたのだ、と思った。
私には、いつかきっと、故郷を離れたこの夜のことを振り返る日が来るだろう。
その時私は、もしかしたら生きること、そして輝くことの本当の意味を、答えを、知るのかもしれない。
そう思った。
3 再び東京へ
母が亡くなってから、いつの間にか6年近くになろうとしている。
故郷を出たあの夜からは、4年経った。
こちらに来てから、いろいろなことがあった。
過去には考えられないほど、多くの人間に出会った。
気づくと、自分の環境も、つき合う人達も、著しく変わっていた。
私は、ここには書ききれないくらい、気づきと学びの機会に恵まれた。
埼玉では2年半暮らした。
現在は東京に住んでいる。
20代の頃、故郷に帰る時、東京に戻ることになるとは考えもしなかった。
人生とは不思議なものだ。
再び東京で暮らし始めて、自分の中で、20代の頃と、今とでは、東京に対する捉え方が違うことに気づいた。
昔はついていけない所だったが、今は面白い所なのかもしれない、と思っている。
ここは、大変な数の人間が集まり、そして、地方とは比べ物にならないくらいの速さで、日々変化している。
そんな東京で暮らしているうちに、私は、人生も面白いものかもしれない、と思うようになった。
自分の人生は、まだこれからだと思っている。
そう思えるようになったのも、故郷を出てから自分自身が変わってきたからだと思う。
20年以上の歳月を経て私は今、20代の頃自分が暮らしていた東京に、再びいる。
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